111 :名無しさん@おーぷん 2014/05/24(土) 18:32:46 ID:???
親が経験した修羅場。

小学校の修学旅行は毎年長崎1泊2日の旅程だった。
複数の町をまとめて1つの地区とし、その地区内の小学校が順番に同じ旅程をたどるという、先生たちからしたら何とも楽な設定になっていたのだが、
その年だけ例外が発生。
2日目に訪れる予定の島原市で普賢岳という活火山が活発化しており、一部住民が避難する自体になっていた。
しかし、メイン観光地である市内中心部は火山の影響はない!と学校側は判断し、地区の修学旅行は決行され、順番づつ長崎へ旅立っていった。
当時は毎日頭上を自衛隊のヘリが長崎方向に飛んで行くのを毎日見ていたし、なんだか異様な雰囲気だったのを小学生でも感じていたのに、今思えばよく決行したなと感心する。

お約束の通り、私の小学校が修学旅行中に普賢岳が大爆発。
この噴火で初めてのタヒ者が出るほど大きな爆発だった。
幸いその日、私たちは1日目の長崎市内巡りをしており、火山とは別方向にいたが、当時は携帯なんてない時代、
情報が満足に入ってこず、親たちから学校への電話と、学区内での混乱がすごかったらしい。
これはまだ小学校低学年だった妹から後で聞いた。普賢岳の事は覚えていない妹が、親や近所の混乱っぷりは覚えていた。
しかし、その頃の私たちといえば、島原市の一歩手前、雲仙の温泉に泊まっており、テレビ視聴が一切禁止されていたので何も知らず。
のんきにお土産選びやまくら投げとかして思いきり遊んでいた。

翌日、朝食の時に先生から普賢岳の爆発が発表され、2日目の予定が変更される旨の説明を受けた。
その話を聞いても「あー、自分らに当たったかー」と思った事しか覚えていない。
というか、その日はもう島原市は完全に封鎖されていて、道にカーキ色のつなぎ?を着た自衛隊が立っていた。ジープみたいなのもあった。

2日目の予定が丸々つぶれ、どこにも行くところがないため、雲仙の小さな公園で時間を潰した。
帰りは予定時間よりも大幅に早く帰ってきた。
戻ってきた小学校は、親や祖父母などの家族が沢山いて、何か凄い熱量で出迎えられて少し面食らった。そこまでなっているなんて当時は夢にも思ってなかったから。当人たちが一番冷静?だったんじゃないかな。
その日の夜は妹が私から離れなかった事をよく覚えているので、送り出した方は相当大変だったみたい。
オチなく長文スマソ
続きを読む